ダニー・ライアン DANNY LYON

『For Walker Evans and James Agee, Knoxville, Tennessee』というタイトルが付いた1枚のモノクローム写真を見たのはいつだったろう。草臥れたコンバーチブルに乗った青年とその前に怯えたような表情の子犬を抱えたもう一人の青年が立っている光景を写したスナップショット。確かあれはまだ僕がカメラを手にしたことが無かった、20代のはじめだったように思う。タイトルにあるWalker EvansとJames Ageeが誰なのかということもまだ全く知らなかった。しかしその1枚の写真は、まるでアッパーなロックミュージックを聴いたような感覚を僕に与えた。今思い起こせば、それが僕が最初に写真に惹かれた体験だったのかもしれない。
ミレニアムを迎える直前の1999年12月、僕はNYに居た。それはこの町に住むある写真家に会うためだった。写真家の名前はダニー・ライアン。あの写真を撮影した人だ。
そして、その夜は偶然にも150年に一度という「Blue Moon」の日だった。

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“BLUE MOON DRIVE” Dialogue with Danny Lyon , 1999.12.23.

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1.
 『OK End Here』。そうタイトルが付いたEメールが僕の自宅に届いたのは、去年12月のある真夜中だった。「OK。君との約束、了解した。出来ればその前に新しい写真集を見ておいてくれ。」そしてそのメールの最後には「“OK End Here”。それはロバート・フランクの2作目のフィルム・タイトルだ。D。」と付け加えてあった。
 ダニー・ライアン。ドイツ移民の息子としてNYで育った彼は、60年代前半、当時の黒人公民権運動を支援する学生団体SNCCの専属カメラマンとして写真家のキャリアをスタートさせた。そして彼はその強烈な好奇心と幸運なアクシデントに突き動かされて、アメリカの隠された物語を撮り続けていった。彼の写真は、それがシカゴのバイクライダーズであろうと、テキサスの囚人達であろうと、コロンビアのストリートチルドレンであろうと、物語の主人公達に注がれたインティメットなその眼差しによって、いわゆるドキュメントの持つ時代性から解き放たれた普遍的な物語を描いている。僕は彼を写真家として以上に、偉大なる冒険家として、憧れと尊敬を強く感じてきた。彼は今どんな冒険を続けているんだろうか。偶然にも以前NYで訪れたギャラリーの方々の協力もあって、僕はこの冬彼に会う約束を交わすことができた。

2.
 トライベッカの小さなホテルにチェックインしてすぐに、僕は日本から持ってきたダニーの古い写真集に目を通した。その中にいる彼は人懐こそうな風貌の中に前のめり気味な目をぎらつかせてこちらを見つめていた。黒いTシャツの袖を肩まで捲り上げたその姿は、写真家というよりも好奇心旺盛なストリートキッズっていったほうがぴったりな印象だった。
地下鉄のトラブルのために予定の時間を1時間程度遅れて、少し疲れた表情のコーディネーターがホテルに到着した。彼女は手に日本では発売されていないダニーの新しい写真集を抱えていた。その本は『KNAVE OF HEARTS』と付けられていた。僕はその大きな本を受け取り、パラパラとめくってみた。そこには見開きの右側にコラージュされた写真、左側には彼が書いた文章がそれぞれ時代に沿って並べられていた。表紙には2気筒のトライアンフに跨った彼自身が居た。それは彼がそのイメージとコトバによって自身の人生を描き出したとても長い物語だった。僕は彼に会うまでのわずかな時間、少しずつ少しずつその中に入り込んで行った。天気は下り坂で、雨がゆっくりと霧のように降りてきていた。吹き抜ける木枯らしが街角からクリスマス気分を吹き飛ばしていた。

3.
 インタヴュー当日、空は高く晴れ渡り、ミッドタウンはクリスマスの買い物客でいつも以上に込み合っていた。僕と約束の時間ちょうどに、待ち合わせのギャラリーに到着した。受付にはダニーを紹介して頂いた日本人女性のレセプショニストである池内さんご本人がいらっしゃった。「ダニーなら、もう先に来てますよ。」池内さんがそう言うとしばらくして、奥のスタッフルームの方から、ダッフルコートとニットキャップ、そしてよく履きこまれたワークブーツといういでたちのダニー本人が現れた。彼は、想像以上に身長は高く逞しい体つきで、当然僕が知っている写真の中の彼よりは年はとっているものの、その大きな目には強い光が静かに、でも確かに宿っていることが感じ取れた。
 「お前か、私に会いに来たのは。話しは後だ。まずは昼飯と行こう。この近くに行き付けの寿司屋があるんだ。」そういうと彼はもうロビーを抜け、エレベーターホールへと歩き出した。僕らは彼の颯爽とした足どりに遅れないように着いて行った。彼の行き付けの寿司屋はギャラリーのすぐ近くにあった。混み合う店の入り口で席が空くのを待ちながら、
僕の親はあなたと同じ年齢なんです、と僕は彼に話しかけた。「1942年だな。私はドイツからアメリカへ渡ってきた移民の息子だ」と彼ははっきりと答え、「今度の春に『THE BIKERIDERS』の写真が東京都現代美術館で展示されることになったんだが、それにしても日本人で私の話しを聴きに来たってのは初めてだな」と笑った。
 「若いときはクレイジーな位に自分のやりたいことのために時間を費やしたほうがいいんだ。私のはじめての仕事は物書きとしてだった。75ドルしかもらえなかったけど、自分のやりたいことで稼いだ金だったから本当に嬉しかった。お前は『A Portrait of the Artist』っていうジェームス・ジョイスの本を知ってるか。それが私のバイブルのようなものだ。アーティストとはどうあるべきかってことを私はこの本を通して学んだんだ。この本の最後で彼は自分の友人や恋人を捨ててでも、やるべきことのために旅立つんだ。全てを捨ててでも。周りから何ていわれようとも…。」突然訪ねてきた日本人の子供(彼から見ると僕らはちょうどそんな感じだ)を見て、彼はすこし諭すかのように話しを始めた。
 「私は数年前までクイーンズのコミュニティカレッジでドキュメンタリーについての授業を持っていたんだ。コミュニティカレッジだったから、1コース200ドルの授業料は安かったがね。そこで長年若い人達と接してきたわけだが、10年前の学生達はといえば、ドキュメンタリーを学んでTV局に入って、お金を稼ごうってのが多かった。でも最近の学生はお金のためではなくて、自分たちが撮りたいからってフィルムをまわしていたりする。すごくいい傾向だって気がしてるんだ。そういう若い人達がいるってことは、少しはこれからの時代も良くなるってことかもしれない。でも勿論そういうことばかりではなくて悪い芽ってのも沢山あるし増えている。で、日本はどうなんだ? 君達はどう思うんだ? お前はこれからこの世の中がもっと良くなって行くと思うか?」
 これから世界はどうなっていくんだろうか。彼は食事をしている間、何度もその質問を繰り返して僕に尋ねた。それはまるで彼自身が自らに課している問いのように思えた。僕は「貴方がコミュニティカレッジで今の学生達に感じたことは、日本でも同様に兆しとしてあると思う。しかし確かに今の日本は次の世代のために、これまでの世の中の仕組みを一度リセットしなくてはならないタイミングにあるのかもしれない」と応えた。そして、以前から聞きたかった少しばかりストレートすぎる質問を投げかけてみた。それは彼自身が繰りかえすその質問に現れているように、彼の行動原理、つまり常にジャスティスとは何かを探しつづけるその姿勢が、一体どこから産まれてきているものなのか、ということだった。そうだな、と少し箸を置いて彼はゆっくりと話し始めた。
「『ローンレンジャー』というテレビ番組が子供の頃大好きだったんだ。彼こそが私のヒーローだった。今でもそうだ。彼は白人の保安官だが、インディアン達とも友達なんだ。私は彼のようになりたいとずっと思っていたんだ。」そう話している彼の丸く大きな目には年齢を重ねることで増していった優しさと、同時に今でも消えることない好奇心旺盛な少年性とが同居していた。

「さあ戻ってインタヴューだ。でもどうだ、うちに来て夜は寿司パーティーをしないか?」その思いがけない幸運な提案に、もちろん僕らが乗らないはずが無かった。僕は日本でEメールを通してダニーと何度かやりとりしている間に、奥さんのメアリーさんが好きだからっていうことで、Sea Weedをお土産にもってくることを頼まれていたのだが、彼の誘いは多分そんな僕を気遣ってくれたからなんだと思う。
 映画の編集用機材の部品を買わなくてはならないんだ、というダニーとは約1時間後に再びギャラリーで会う約束をして僕らは一旦別れた。僕は今夜のための買い出しに日本の食材を売る店まで慌てて走った。そして少し多めに寿司海苔とお酢、特選生わさびを買いこんだ。
 約束の時間に少し遅れてダニーはギャラリーに姿をあらわした。僕らは彼のクルマが駐車してあるアッパーウエストのパーキングに向かうタクシーを拾おうと通りを歩き出した。「父親はドイツからアメリカに渡ってきて、ちょうどあの辺りで眼科医として開業してたんだ。ちょうどあのビルだ。患者の中にはあのスティーグリッツも居たんだよ。」レキシントン・アヴェニューに向かう道すがら彼は僕にそう教えてくれた。僕は既にその時点で、今日の幸運なハプニングにわくわくした気持ちでいっぱいになっていた。
 アッパーウエストの駐車場には、まだ買って1週間という新車のボルボT6が止められていた。乗りこむとまだ卸したての皮の匂いがした。僕らは彼の車に乗りこみ、ハドソン河沿いまで出て、クリスマスの買い物客で渋滞している道路を北へ向かった。「ほら、ここがうちだ。」ダニーは地図を取り出して、僕らに説明してくれた。「週に1回はマンハッタンに出てきているんだ。ギャラリーを廻って集金さ。」
 陽はゆっくりとハドソン河を越え西へと落ちかかっていた。冬の高い空にはうっすらとオレンジ色が滲み出し、濃いブルーに裾の方からゆっくりと染められつつあった。クリスマスプレゼントを積み込んだ車でバッドトラフィックだったが、オレンジ色の光をキラキラさせながら静かに横たわっているハドソン河や、葉を落とした街路樹が日差しを和らげながら後方へと流れていく景色が、すっかり僕らをリラックスさせてくれた。
彼は運転しながら「今から日本人の客を連れて帰るぞ。今夜は寿司パーティーだ。」と携帯を使って奥さんのメアリーさんに連絡を入れている。「魚は何がいい?ツナ? ジャックフィッシュ? イエローフィッシュはどうだ?」ハドソン河を西に渡る大きな橋が見えてきた。あのジョージワシントンブリッジを渡るとあとはまっすぐ北へ向かうだけだ。橋を渡っている途中、ダニーは車のサンルーフを開け、「ほら、どうだ、いい眺めだろ。そこから身体を出して写真を撮ってみなさい。あのマンハッタンの夕焼けを。」と僕に言った。僕はサンルーフから上半身を外に出し、遥か先の夕暮れの中に霞んで見えるマンハッタンの景色に向かって何枚かシャッターを切った。「ははは。お前がはじめてだよ。このクルマから写真を撮ったのは。」と彼は大笑いしていた。ウィリアム・グローブ・ロードを走っている辺りで既に陽は落ち、道路の左右に流れて行くすっかり葉を落とした木々のシルエットだけがまっすぐ僕らの上に影を落としていた。

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4.
「お前達は知ってるかな。今夜は“ブルームーン(青い月)”なんだよ。今日は12月で2回目の満月なんだ。満月ってのもまあ普段からすると珍しいんだが、もっと凄いのは、今夜の月が一番地球に近いところにあるってことなんだ。この2つの偶然が重なるっていうのはホントに珍しいんだ。特別な夜なんだ、今夜は。次ぎにこの2つの偶然が重なるのは150年後なんだよ。今まさにこの瞬間が、150年に1度の夜なんだ。それにしても、何故なぜ“青い月”なんだろうね、でも誰かがそう呼んだんだ。お前は私の『I ‘d like to eat on the dirt』って本を見たことがあるか?そこに私が月を撮った写真があるのを覚えてるか?その写真は、私が月を描いたものだ。」ダニーが描いた月は、その写真集の中でメアリーさんの出産時の写真と一緒にコラージュされていて、月の明りを長時間露光で捉えてその明りで何度もぐるぐると円を描いた写真だった。とても優しい写真だ。

 外は完全に夜の闇になり、ヘッドライトに照らし出された北へと伸びる一本道と、時々行き交う車の姿しかみえなくなった。それでも山々のシルエットははっきりと輪郭を描いていて、今夜が美しい月夜であることを充分に匂わせていた。たわいのない話をしながら、しばらくドライブを続けていた時だった、右回りのカーブを大きく廻わり切ったところで、唐突に僕らの目の前に黄金色に輝く満月がその姿を現した。すぐ目の前に広がるハドソンリヴァーバレーの山々の峰に覆い被さるようにして、その異様に大きな満月は強い光を放ち浮かんでいた。 まるで強い意志を持った誰かの瞳が僕らを睨み付けているかのように。
 僕はその光景に唖然となってしまった。「あれが150年に1度の“ブルー・ムーン”だ。こんな夜は私達をクレイジーにさせるかもな。」 
T6は有名な米軍の士官学校があるウエストポイントを通り過ぎようとしていた。その光景に魅入られたまま僕は彼と話しを続けた。

 貴方はシカゴ大学で歴史学を勉強されたんですよね。写真家としてのキャリアは実は偶然にはじまったものだともおっしゃってますね。
「その通りだ。私は歴史を勉強してきたんだ。歴史を学ぶことが好きなんだ。誰もが歴史を学ぶものさ。日本では子供達に日本の歴史を教えるだろ。アメリカ人はアメリカの歴史を教える。ドイツ人はドイツの歴史を教える。問題なのは、こうした全ての歴史は最後には結局“愛国心”によって利用されてしまうことだ。そして最後にはとっても悪い方向にいってしまうことなんだ。お偉いさん達は歴史的な物語を悪用する。そのことで人々をコントロールしたり、利用したりするために。とても残念なことだ。 私は本当に歴史が好きだ。ストーリーが好きなんだ。でも机の上だけで学んでいる者は大馬鹿だよ。」

正直、僕はこれまで貴方を写真家という以上に、ストーリーテラーとして感じていたような気がするんです。
「お前が言ってることは正しいよ。私は写真を“文学(Literature)”として捉えているんだ。写真を撮ることは、まるで“書くこと(Writing)”のようだと思っている。まるで書くことの代わりでもある。写真集にしても、ギャラリーでのプロジェクトにしても、他に私がしている様々なことは全てまるで“小説(Nobel)”のようだ。それらは全て文学のカケラのような気がしているんだ。それでも私はヴィジュアル・アーティストなんだ。私は偉大なる写真家達に心からの尊敬をしている。例えば、ブラッサイとかね。ブラッサイが文章を書いたのか、それとも書かなかったのか、私は知らないし気にもしない。写真なんだ。その写真を私はリスペクトしてるんだ。そして、私はそのように思える写真を撮ることを目指している。昨日もインディアン達を撮った自分自身の写真を見ていたときにも感じたんだが、私にとってまだ挑戦しなくてはならないことは、何か文章を書くことだ、って思っている。何か自分がいいたいことを、一個人として言わなくてはならないことを文章にすることだ、って。ただ写真を撮ることだけで彼らを完全に描写しようというのではないんだ。ただインディアンの写真を“撮る”だけでは、自分の中に人間として完璧に満足できない部分があるんだ。そしてそのことを私はまだ諦めてはいない。写真を撮ることは本当に難しいんだ。子供の頃、父親があの“3匹の猿”を見せてくれたんだ。あの『見ざる、言わざる、聞かざる』って奴だ。写真を撮るってことは、言ってみれば、“言わざる、聞かざる”で、ただ“見る”ってことになる。確かに、私は“見る”って行為を愛している。何故なら、私はヴィジュアル・アーティストだから。でもその一方で、音や言葉や誰かが話しているのを聞き入ったりする。書くことは、そんな話したり聞いたりしたことを残していくためには必要な手段なんだ。全く違うことなんだ。撮ることと書くことは、お互いに補完しあうものなんだ。」

 あなたは新作の『Knave Of Hearts』の中でも、あなたならではの方法~コラージュ~によって物語を描いていますよね。あなたならではのストーリーテリングはどのようにして産まれたんでしょうか。
「私はシカゴで写真家としての仕事をしてきた。あるドキュメンタリーグループの一員としてね。その時彼らは『フォト・ストーリー』ってアイデアを持ち出した。例の『ライフ誌』のような奴さ。私はそのアイデアがすごく嫌だったんだ。“朝起きる、仕事に出掛けて行く、妻と話しをしている、家に帰って来る、犬が出迎える、そしてベッドで眠る。” それが『フォト・ストーリー』だ。なんて馬鹿げた写真だろう。それは写真なんてもんじゃない。写真は“ヴィジュアル”なんだ。それはストーリーを説明するためではない。ヴィジュアルであり、エモーションなんだ。例えば愛する人の写真を撮ったとする、お前はそこから、写真の中の、その人の表情から、何かお前を前に進めてくれる何かを感じるはずだ。それが写真だ。私の最初のコラージュは、父、祖父、祖母、私、私の息子、犬、それらを一枚の写真にしたものだ。私の父は私の息子に会ったことがない。私の祖父も勿論私の息子に会ったことなどない。だから私はそれらを一枚の写真にしたんだ。実際には決して一緒になることがなかったからね。私はその瞬間を見たかったんだ。インディアンの『トーテムポール』は知っているだろう? 彼らは、父、祖父、祖父の父、自分自身、そして子供を木に彫ってひとつのポールを造るんだ。コラージュによってつくった私の写真はまさにこのトーテムポールと同じなんだ。でも実はその写真に写っているのが私の父なのか、祖父であるのか、そんなことはどうでもいいことなんだ。ただその写真を見て感じることができるかどうか。そこには古い写真、新しい写真、いろんなものがコラージュされている。それをひとつの写真としてみたときに、何を感じ取ることが出来るのか。そこが重要なんだ。」
 「ほら、見てみなさい。まさにMoon On The Riverだよ。」僕らを乗せたT6はニューバーグブリッジを渡ろうとしていた。目の前に現れたこの世の果てのようで、同時にこの世の始まりであるかのような神聖な風景に僕はただひたすらに驚きの声を挙げ続けた。

「ほら、この月夜の写真をクルマから降りて撮って来なさい。」 
僕は、彼に言われるや否やすぐにクルマを飛び出し、木々の間から青白く輝き川の上に浮かんだブルームーンを撮りに走って行った。さっきからいつそう僕から言い出そうかと思っていたくらいだったからだ。「ははは、お前はホントにフォトグラファーだな。私は寒くてクルマの中だよ。」クルマに戻ってきたとき、彼はそう言って笑っていた。「OK、撮れたか?」そう言いながらダニーは再びクルマを走らせ始めた。
 
5.
 「ほら、あれが私の家だ。」
大きな道を脇に入ったところで、彼がそういって一軒の家を指差した。月夜に照らし出された家は派手過ぎない飾りが玄関周りに施されて、玄関には牛のスカルがライティングされていた。家の前の芝生には葉をすっかり落とした大きな木が一本だけ立っていて、その横には古い納屋があった。クルマを出た僕らの元に一匹のシェパードが走り寄ってきた。「サムっていう名前なんだ。」 ガレージとして使っている納屋の隣には、改造してスタジオにしている納屋もあったが、そのどれもが非常に丁寧に造られていた。ガレージには古く大きなトラクターが止められてあった。
「 あれが私のトラクターだよ。40年代のものなんだ。私も確かにトライアンフとかバイク何台か持っていたけど、決して所謂バイク乗りなんかじゃなかったんだ。それに、このトラクターの方がよっぽど気に入っているんだ。こいつに乗れば何でもガンガンなぎ倒して進めるしな(笑)。」サムについて僕は彼の家に向かった。外は凍えるほど寒かったが、ご主人が帰ってきたのを知って、サムは銀色の芝生の上を走りまわっていた。
 家の中にはいるとすぐに奥さんのナンシーさんが出迎えてくれた。彼女の顔を僕はダニーの写真を通して既によく知っていた。彼女は実際とても明るくチャーミングで突然の客を快く迎えてくれた。僕がお土産に持ってきたSea Weedを渡すお、彼女はさっそく今日の寿司パーティーのための準備にとりかかった。その間、僕は少し家の中を見させていただいた。ライアン家はクリスマスではなく、ユダヤ教のハヌーカを祝うために途中で見てきた家々のような派手な飾りはなかったが、丁寧に仕立てられた家の中には、ありとあらゆるところに沢山の家族のポートレートが飾られていて、それは派手なクリスマスの飾り以上に、親密で暖かい雰囲気を創り出していた。そのポートレートのいくつかは僕にも見覚えのある写真だった。廊下にはナンシーさんが綴った鮮やかなキルトと並んで、大きな額縁の中に家族全員でニューメキシコを訪れた時の何枚もの写真のコラージュがあった。それは、ダニーとナンシーさんが共にその手で編んできた家族の物語だ。
 彼の書斎には数え切れないほどの本が天井まできちんと並べられ、それは写真家というよりも、まるで大学教授のプライベートルームという印象だった。僕がその中からまだ見る機会がなかった彼の写真集を引っ張り出してきて見ていると、メモを書きこんだ名刺を持ってダニーが現れた。「ほら、お前はこの後パリに行くんだろう? だったらここを訪ねてみなさい。ここには私がこれまでに撮ってきた映画が全て置いてあるから。」 そこには、パリにあるMEPと呼ばれる写真美術館の場所と電話番号が書いてあった。
 「さて、じゃあ私のスタジオを見に行くか?」というと彼はニットキャップをかぶって離れにある納屋を改造したスタジオに僕を連れていってくれた。異常に明るい月夜に照らされて家の裏に彼が造ったという池が、その水面を青く光らせて浮かんでいた。僕は、飛びかかってくるサムと戯れながら、銀色に光る芝の上を歩いた。
スタジオは大きく、家と同様に木の温もりが優しい雰囲気を醸し出していた。壁には彼の最新のプロジェクト、アメリカンインディアンのモノクローム写真が何枚も貼り出され、作業台の上には、SX70で写したポラロイドとモノクロ写真とのコラージュが制作中だった。暗室には使いこまれた古い引き伸ばし機が置かれていた。7~8年前から撮ってなかったが、今新しい映画を製作中なんだ、そういって案内してくれた隣の部屋には映画の編集用の機材が机の上にぽつんと置いてあった。

「このポスターを見なさい」と彼が壁に貼ってるアメリカの地図を指差した。それは何百年も前から現在までのアメリカンインディアン達が住む土地の変遷を地図上に示したものだった。「かって、アメリカは彼らの土地だったんだ。それが今ではほんの少し、しかもこんな場所に追い遣られている。」僕はその地図を、その上にほとんど染みのようにこびり付いたような、現在のアメリカンインディアンの居留地を見つめた。「またもうすぐニューメキシコに行くんだ。」彼が指で指した先には、「Vanishing Point」と記してあった。
 彼は手作りのこのスタジオのように、ここで消え行く物語を丁寧に編みつづけているのだ。そして、僕はスタジオの壁に張り出されたインディアン達の写真を背景に彼のポートレートを数枚撮影した。

HeartButte,Montana,BlackfeetReservation,1998.jpg

6.
 スタジオから戻ると、ちょうど魚の仕入れから息子のノアと娘のレベッカが戻ってきたところだった。ナンシーさんが子供たちと談笑している隣の部屋で、僕はダニーと彼の新作『KNAVE OF HEARTS』についての話しを始めた。彼はテーブルの上でその新しい本のページをめくりながらゆっくりと話しだした。
 「この本は、つまり追悼碑(メモリアル)なんだ。この本は本当に沢山の様々な人達を捉えている。それは100年間もの歴史だ。最初の写真はもう1世紀前の私の父、祖父の写真だ。この中に出てくる私が出遭った人達は、彼らのほとんどが死んでしまって今はもういない。これはダニエル・セイモアだ。お前も知ってるだろ。彼は親友だった。本当に私にとってかけがえのない友人だった。こっちの彼はヒッピーだ。ヒッピーだって言うだけで彼は殺されてしまった。これはジョン・E・サンチェス。そしてこれは彼の墓だ。私は彼の墓の写真を何枚も何枚も撮った。この本はまるで教会だ。そして追悼碑なんだ。日本でも誰かが死ぬと、お社や祭壇をつくって奉るだろう。この本はお社なんだ。死んだ人達に捧げたお社なんだ。これも死んだ友人だ。こっちもそう。彼も死んでしまった...。でも私は生きている。この本はとてもエモーショナルなものなんだ。これはウィリーだ。これは彼への墓標なんだ。こっちの写真は私の家族だ。彼女は飛行機事故で死んだ。これはロバート・フランクの娘、アンドレア。彼女も死んでしまった。これはテキサスの刑務所で知り合った友人達。ここにいる彼らはみんな死んでしまった…。 でも、私の手元には彼らの写真がある。 彼らの誰もここにはいない。でも写真だけは残っているんだ…。私の子供達にこれらの写真を見せたかったんだ。ここに残っているものを…。」 1ページ、1ページ、彼らの写真をそっとめくりながら、ダニーは僕にそう話しつづけた。
 でもここにある、あなたの友人達のお墓は本当に美しいです。あなたはまるで墓標のようだと話してくれましたが、この『KNAVE OF HEARTS』に収められた写真は本当に美しくて、鮮やかで、むしろ生きている匂いを強く発しているように感じます。
そうだな...と、少し自身でそれらの写真を眺めながら、彼は僕に唐突に「お前は、『Bleak Beauty』って言葉を知ってるか?」と尋ねた。それはダニーが奥さんのナンシーさんと2人で創った出版社の名前だった。
 「お前はこの『Bleak Beauty』っていう言葉の意味を知っているか? 例えば、ロンドンの天気の悪さって分かるだろう。いつも霧がかかっていて、よく雨が降っていて、寒々しくて。通りにはあまり人が居なくて、物悲しい。そんな天候のことをBleakっていうんだ。説明するのはちょっと難しいけど、きっと日本語でもいい言葉があるはずだ。Bleakってのは色が無くて、単調で、不快で、醜いことを意味している。だからBleak Beautyっていうのは“醜さの中の美”という一種の反語なんだ。でもその相反する意味が重なったところに、本当の美しさがあると私は思う。そこにはとても悲しくて、寂しいんだけど、だからこそその中に見つけられる美しさがあるんだ。」 そういって彼は本棚から1冊の写真集を取り出した。それは彼の家族のアルバムである『I’d like to eat on the dirt』だった。そして彼はその中に収められた雪が舞うニューヨークの街路を撮った写真を開き僕らに見せた。
 「例えばこの写真だ…。これはNYのクリスティー・ストリートだ。私達はここに住んでいた。これがまさにBleak Beautyだ。私が尊敬するアートコレクターのドミニク・ドミニールが私にこう言ったことがある。『あなたの全ての写真には、HappyとSadの両方のクオリティがある』と。この『KNAVE OF HEARTS』は死を写している。でも美しい。相反する2つの意味が含まれているんだ。例えばこの写真の彼は囚人だ。彼らは社会的にはBadな存在なんだ。でも美しい。」
 あなたは何故今このような写真集をつくったんですか。まるであなたの人生の集大成のようでもあるわけですから。
「私はまるで私の人生がまるで終わったかのようにしてこの本を作ったんだ。分かるか。私は自分の人生が終わったかのような“ふり”をしてこの本を作ったんだ。 この本はフィクションなんだよ。でも人々はそのことを理解はしない。それは私がドキュメント写真を撮っているから。でもこれはクリエイションなんだよ。それは写真が真実を撮らないっていうことを意味しているのではない。何事にも始まりがあって、終りがあるんだ。この本を作るために、この本の中で私が出会ってきた人達をもう一度振り返るために、この本を完成させるために、私はいったん自分の人生が終わったかのようなふりをして完成させたんだ。この本の最後で私の人生は終わったように描かれている。でもそれは真実じゃない、私の人生は終わっていないから。そして物語の最後に、私は子供達を見ている。そこでは、私の子供達が、次の新しい冒険(アドベンチャー)に立とうとしているんだ。」
 
7.
彼がそこまで話した時、ナンシーさんが寿司パーティーの時間よ、と僕達を呼びに来た。
僕らはノアとレベッカが買って来てくれたサーモンやツナを、手巻き寿司にしてパクついた。たっぷりワサビを効かした寿司を食べる僕に「勇敢ね」と家族の皆は笑った。手で掴んだりして食べられるかと普段は頑固なダニー父さんも、今夜は素直に従った。
「私達もお父さんと一緒に撮影現場にしばらく移り住むこともあるのよ。」と、高校生のレベッカが僕に教えてくれた。普段は家の中に入れてもらえない飼い猫も今夜は珍しい客がいるからっていうことで特別に居間に上がってきて、僕のひざの上に沢山の白い毛を残してじゃれている。明るいナンシーさんは「うちのお父さんは天才よ。あの『グレート・ファミリー・アルバム』を見た?でもこの人、いつも人を見るときはこうやって少し斜めから見ているのよ。」 といって片目をつぶって頑固そうな表情をしておどけて見せてから、明るく高い声で笑った。僕はまるで、ライアン家の皆が『グレート・ファミリー・アルバム』と呼ぶ写真集の中に入り込んだような、心地よい錯覚を感じていた。食事の前には、本当はもっといろんな質問をしたいと思って考えていたければ、その時、既にもうこれ以上質問をする必要もない気がしてきた。このファミリーアルバムが綴られている瞬間に、何故彼が今まで執拗に物語を、消えて行く物語を、そのヴァニシング・ポイント(消滅点)を必死で綴って行こうとしてきたのかが分かりかけた気がしたからだ。そして、テーブルを囲んだ家族の皆を見ながら、父が綴った物語が確実にここに残っている、繋がっていることを感じたからだ。「もうインタヴューはもう充分だな。」そんな僕のことを察してか、食事を終えてからダニーは僕に静かに言った。   
 帰りは近くの駅までノアがクルマで送ってくれることになった。
発車の時間までしばらくの時間があるからと、僕は2階のノアの部屋に上がっていった。彼はDJをやっているんだといって、スクラッチの技を見せてくれたり、自身のペインティングの作品を見せてくれたり、ノアの友人でマタドール・レーベルのミュージシャンNon Phixionの話しで盛り上がったりした。しばらくすると、階段の下からダニーがもう時間だよ、と僕らを呼んだ。
 出発前、僕は少し躊躇してはいたのだけど、思いきってダニーに僕の写真のブックを見てもらった。見終わって彼は「お前の写真は映画のようだ」といった。僕が自分の写真と連絡先を刷ったポストカードを渡すと、日本語で何かメッセージを書いておいてくれ。スタジオの壁に貼っておくからといった。僕はただ「ありがとう」とだけ書いて彼に渡した。
 「また来なさいね。いつでも歓迎するわ。」家族の皆にお別れをいうと、明るい声でナンシーさんがそう応えてくれた。外は相変わらず大きなブルームーンの明りで、闇全体が青白く発光していた。家の裏にある池も、庭に1本だけ植えられた古い大木も、大きな納屋も、その前に置かれた釣り用のボートも、その青白く発光する闇の中で静かに眠っていた。

8.
パリはクリスマスストームに襲われ悲惨な状況になっていた。街中の美しい街路樹はなぎ倒され、ガラスの破片が飛び散り、カフェの屋根も切り刻まれ、交通機関も一部ストップしていた。 クリスマスストームの影響と短すぎる昼と降り続く雨と移動の疲れのために、僕はすっかり気が滅入ってしまっていたが、早速ダニーに教えてもらったMEPまで地下鉄を乗り継いで訪ねてみた。そこで僕は彼が60年代後半からこれまでに創ってきた全ての映画を見ることができた。彼が創った最初の映画『Social Sciences 127』(‘69)、彼の親友であったダニエル・セイモアが扮するゼロックス・キッドが登場するスウィートな夢物語『Destiny Of The Xerox Kid』(’70)、荒涼とした地の果てにすむインディアン達を見守った『Llanito』(’71)、メキシコ国境を越えるトラベラー達を撮った『El Mojado』(’74)、コロンビアのストリートチルドレン達のドキュメント『Los Ninos abandonados』(’74)と、年代を追って僕は旅を続けた。最後に見た最も新しい作品『Media Man』(’94)では、「A Film About America, about Good America」と語られ、ポートジェファーソンのタトゥー・コンテスト、ミシシッピー州のユニオン・チャペルのソウルミュージック、ニューパルツの自宅農場でとれる野菜や、死んでしまった飼い猫を子供達と一緒に埋めるシーン、そして他の映画にも頻繁に登場するダニーのご両親のお墓を家族で訪ねるシーンなどがたんたんと綴られていた。そしてそこには「ナンシー&ダニー・ライアン・フィルム」と記されていた。そこには彼らがともに、アメリカという物語を綴っている姿があった。
 結局僕は全ての映画を3日間通って見終わった。最後の映画を見終えて、表通りに出たとき、また霧のような雨が降り出してきた。夕方5時だというのに、もうすっかり外は暗くなっていた。辺りにはまだクリスマスストームの傷痕が癒えずに通りの隅の方に残っていた。メトロのSt.Paul駅の前にぽつんと置かれた移動式の小さなメリーゴーランドだけが、ゴールドとオレンジとブルーの鮮やかなライトを点灯させて回転しつづけていた。
 『BLEAK BEAUTY』。僕はダニーが語ったその言葉を感じていた。そして、あの大きなブルームーンの光に包まれた農場のことを思い出していた。

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© 2005 Washio Kazuhiko / 『ウェイストランド』VOL.6 (2000年5月発行)

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ダニー・ライアン(Danny Lyon)
1942年ニューヨークのブルックリン生まれ。シカゴ大学で歴史学を専攻する。
1963年にSNCC(学生非暴力調整委員会:the Student Non-Violent Coordinating Committee)の専属カメラマンとなり、CivilRightsMovement(公民権運動)をルポタージュする。その時の写真をまとめた『The Movement』を1964年に発表。
その後60年~70年代にかけて価値観が激動するアメリカの社会と文化を被写体の内側から撮影する。 65年から66年にかけて社会のアウトローであるバイカーに興味を持ち、実際に“シカゴ・アウトローズ” の一員となり集団の内側からバイカーたちのライフスタイルをスナップ・ショットで撮影、一連の作品は後に写真集『The Bikeriders』として発表された。1966年にネイサン・ライアンズによって企画された写真展『Contemporary Photographers ~Toward a Social Landscape』に、ブルース・デヴィッドソン、ドウエイン・マイケルズ、リー・フリードランダー、ゲリー・ウイノグランドらとともに選出され注目を集めた。
その他代表作にはテキサスの刑務所の囚人の生活を記録した『Conversations with the Dead』(1971) 、美しいファミリーアルバム『I Like to Eat Right on the Dirt』(1989)、消え行くインディアンたちのホームグラウンドを撮影した『Indian Nations』(2001)等がある。



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清水勝広 KATSUHIRO SHIMIZU
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ドノヴァン・フランケンレイター DONAVON FRANKENREITER